3.11 東日本大震災を経験して

2011年11月9日
佐藤 由紀子(弁護士)

佐藤 由紀子(弁護士)

 3.11東日本大震災については、すでにいくつものシンポジウムが開催され、また、意見書、提言なども出されているので、ここでは、私の個人的な経験と思いを書かせていただいた。関心を持っていただければ幸いである。

 あの日、あの時、私は、ちょうど仙台家庭裁判所の書記官室に入ったところだった。「こんにちは」と挨拶をしていると、突然の激しい揺れ。

 部屋全体が大きく動いているので、思わずハイカウンターを離れ、横のローカウンターのところでうずくまった。揺れは、あまりに乱暴で、どうなるのだろうと思っているうちに、ハイカウンターが入口のドアにぶつかり、大きな音。ますますおそろしくなり、うずくまったまま、身動きできなかった。

 地震は長く、揺れがおさまったかと思うとまたグワーンと。少しおさまった時、書記官の方が、部屋の中央に連れて行って下さったが、もう、足元もおぼつかない感じだった。

 このまま、世界が崩壊するのではないか、そんな不安にさえかられてしまう程の激しく、そして長い地震だった。

 ようやく大きい揺れがおさまると、皆、階段で避難したが、足がガクガクして、階段から落ちてしまいそう、そんな状態だった。外へ出て、ようやく自分を取り戻し、まず、事務所へ。事務所は、裁判所の近くのマンションの8階だが、皆、1階に降りており、無事だった。でも、事務所の中は、メチャクチャと。

 とにかく、事務所のメンバーの無事を確認したら、家へ帰らなければと、帰る手段を考える。タクシーはいない。かろうじて、駅へ行くバスがまだ走っていたので、バスに乗って駅へ。

 駅に近づくと、人であふれている。バスプールでバスを待っていると、以前の依頼者とバッタリ。お互いに無事を喜び合い、これからの無事を祈りあって別れた。

 そのうち、男性の声で、「バスはもう来ないぞ」。バスプールにいた人達が、一勢にバスプールから外へ歩き出した。まるで、映画の中のワンシーンのようで、とても、今、自分が身を置いている現実とは思えない光景だった。

 それでも、運良く家の方向へのバスが来たので、これが最後のバスと思い、飛び乗った。信号が無く、人もあふれているため、バスは遅々として進まず。歩いている方が早いようだった。

 それでも、バスにしがみついていたが、途中で電線が垂れ下がっていたため、バスは、これ以上先へは進めないと、皆、降ろされた。

 私の隣に立っていた若い人が、携帯を見ながら、津波だって、と言っていたが、誰も、気にもとめなかった。仙台に津波が来るなど、考えたこともなかったのだ。

 それからは、とにかく歩いた。雪が降ってきて、とても寒かったが、家では母が待っているので、とにかく歩いた。

 地震の後からずっと歩いたり、立っていたり。股関節の悪い私にとっては、本当にたいへんで、家までたどり着くだろうかと思いながら、ファイト、ファイトと自分を励まして、歩き続けた。

 家に着いた時は、もう、地震から2時間近くが過ぎ、暗くなり始めていた。

 家は、マンションの12階。マンションに着くと、管理人さんと管理組合の理事長さんが駆けつけてくれた。何度も心配して12階まで行っているけれど、鍵がかかっているので、中の様子が分からない。お母さんは中にいるの、と。多分部屋に閉じこめられて動けないでいると思うので、よろしくお願いしますと一緒に12階へ。しかし、私の足が上がらない。手摺りにすがりついて、ようやく1段1段上っていたので、理事長さんが、鍵を貸して、先に行って開けているからと助け船。

 ようやく12階までたどり着いたが、玄関からもう、物が散乱し、メチャクチャ。理事長さんには、靴のまま入ってもらう。

 助けられた母が、消え入るような声で「ゆきこ?。どうしてたの。今までずっと待っていたのよ?。」

 母の部屋は、ベランダのサッシ戸が飛び、母は雪の中、ベッドに腰掛けたまま、倒れてきた家具に挟まれ、動けないでいたのだ。幸いなことに、怪我はなかった。

 家中、家具という家具は倒れ、物が散乱し、途方に暮れるとしか言いようがない状態だった。理事長さんがご夫婦で、とりあえず、母を部屋から居間に連れてきてくれ、居間に椅子を2つ向かい合わせにおけるスペースを作って下さった。もうその頃には日も暮れ、真っ暗。確か、懐中電灯もろうそくもあったのだが、探すこともできない。理事長さんが、おにぎりと水とろうそくを差し入れて下さった。本当に有り難かった。

 ようやく落ち着くと、猫がいない。ベランダに出たのだろうか、バタバタしている時、外に出てしまったのだろうかと慌てて名前を呼ぶと、ドアをガリガリひっかく音。私の部屋に閉じこめられていたのだ。しかし、何かが中で倒れているらしく、ドアはどうしても開けられず、猫2匹には、一晩我慢してもらうことに。

 その夜は、母と2人、向かい合わせに椅子に座り、オーバーを着てショールを巻き付け、布団を2人でかぶって、一晩過ごした。

 何の情報もなく、全ての家具が倒れ、物の散乱する中、寒く、身動きもできず、不安で、長い夜だった。さらに、余震も度々。

 そのうち、母が、遠くに綺麗な灯が見えると言うので、外を見ると、本当にオレンジ色の灯り。真っ暗な中でのたった1つの灯りだった。火事かしらね、でも、火事なら、消火するんじゃないの。ずっと光っているから誰かが明るくしてくれているのかしらね、などと話していた。その時には、消火できない火事が起きていることなど、全く分からなかった。

 ようやく明るくなると、少し気持ちに余裕ができ、怪我をしないよう気を付けながら、家の中を見て回る。言葉もない。どこから手を付けたらよいかも分からない。

 とにかく、まず、トイレと思い、災害用トイレを探し出してセット。

 我が家では、何が起こっても、母が避難所に避難することはできないので、常に、災害用トイレと水だけは用意してある。母は、両股関節が固定された状態なので、歩くには松葉杖が必要だし、階段の上り下りは不可能なのだ。

 私達は、避難所に避難するよう理事長さんに求められたが、火事にならない限り、何とかなるだろうとマンションの12階に籠城したのだった。

 しかし、ライフラインの全くないマンションで、自分の部屋に残っている人は、他にはいないようで、理事長さん達には、結局、たいへんご迷惑をおかけすることになった。理事長さんと副理事長さんが、交替で、毎日、朝・晩、差し入れを持って12階まで来て下さったのだ。感謝するばかりだった。

 それからは、陽のあるうちは片付けの毎日。初めは、母がベッドで寝られるように、母の部屋の片付け、その次の日は、私が自分のベッドに寝られるように、自分の部屋の片付け。居間は、とりあえず、食事ができるよう、テーブルの回りだけ。父の部屋は、洋服ダンスも和ダンスも、大きくて重くて、私の力では元に戻せず、回りの方に手伝ってもらった。

 特にたいへんだったのは、台所。昔ながらの大きくて頑丈な食器棚が、90°角度を変えて流しに倒れ、その向こうで、冷凍冷蔵庫が倒れ、食器棚に寄りかかっていた。瀬戸物もガラス器も、あらかた壊れ、それを怪我をしないように始末するのに、数日かかった。食器棚も、私の力では、全く動かしようもなく、これも、力を借りて、直してもらった。冷凍冷蔵庫に到達した時には、すでに、電気も復旧していたが、冷凍冷蔵庫は壊れてしまっていた。

 電気と水が復旧したのが、3月15日午後、エレベーターが動くようになったのが翌16日午前中。電気が復旧するまで、テレビを見られなかったので、大津波も、東電の原子力発電所の被害も、良く分からないでいた。

 トランジスタラジオを見つけ、ずっと付けていたし、翌々日からは、新聞が配達されるようになったので(地元の新聞は、12階まで配達してくれました)、何も分からなかったわけではないが、あまり実感はなかった。

 一番驚いたのは、ラジオが若林区で200人から300人の遺体を発見した旨を放送した時だが、信じることはできなかった。このラジオは、何を言っているんだろうというのが、その時の気持ちだった。

 とにかく、大災害だったということは判り、我が家がメチャクチャになったというレベルの話ではないことは分かったが、電気・水の復旧後も、しばらくは、家の中の片付けや食事の用意などに忙殺された。何か野菜や果物をと買物に行くと、キャベツ1個800円、ジャガイモ1個200円、卵は6個で500円。牛乳は、なかなか手に入らなかったが、ようやく1本入手でき、ホットケーキを焼いて食べた。とても美味しかった。

 こんな生活を続けていると、自分が弁護士であることも忘れてしまい、とにかく、毎日、片付け。

 4月に入り、ようやく、仕事に戻るが、エンジンがかからないまま。事務所のパソコンを開け、メールを開いて、元気に法律相談やら電話相談やらをしているのを読むと、何だか辛くなり、何でそんなに元気でいられるのだろうと落ち込んでしまう毎日だった。

 我が家では、父が2月25日急死し、呆然としているところに大地震だったので、仕事がひどく遠いものに感じられてならなかった。

 このままでは仕事ができなくなる、そう思い、とにかく、毎日、事務所へ。

 まず、依頼者の安否確認。自宅を津波で失った依頼者はいたけれど、津波で亡くなった依頼者はいなかった。しかし、友人が、津波で家を流され、母親を亡くしていた。私が電話した時、昨日ようやく母が見つかり、少し気持ちの整理ができたところだとの話だった。かける言葉もなかった。

 私自身、足が痛く、被災地を走り回ることはできないので、何もできず、歯がゆい思いだった。被災地で、女性は、どうしているのだろうか。ある時、テレビを見ていると、避難所での集会が写し出されている。女性が発言していたら、いきなり、男性が「女の言うことなんか聞くことない」と。

 この大震災の中で、女性がどんな困難な状況に置かれているかは、それほど明らかではなく、法律相談でも、被災女性からの相談が多いという状況にはなかった。

 しかし、地域全体が困難な中で、女は黙って従えという意識が表面化していることに驚いた。この大震災からの復旧に女も男もない。共に手を携えて、はい上がるしかないはずなのに。

 避難所でのプライバシーのないことも問題だった。つい立てもない体育館では、女性は着替えもままならない。毛布をかぶり、毛布の下で、もぞもぞと着替えをしていたとの話しも聞いた。赤ちゃんに授乳するのに、人目のない場所がないとの嘆きも。

 ある避難所では、仕切りがほしいとの女性の要望を、リーダー格の男性が「みんな家族じゃないか」と退けたという。別の避難所では、同じ要望について、多数決によって退けたという。

 また、義捐金などの世帯主条項が、別居している女性への支援を妨げているという話も出てきていた。もともと、女性に対する差別の道具ともなっていた世帯主条項が、この大震災でも、障害となっていた。

 結局、このような非常時に、平時以上に男女の平等が実現できるわけはなく、社会における女性の状況が、明確に、あるいはむき出しの形で、明らかになるのだと思い知らされた。

 さらに、今後心配なのは、仮設住宅での家庭内暴力だ。避難所には、プライバシーがほとんどなかったので、人目があり、家庭内暴力は顕在化していなかった。

 しかし、仮設住宅に移り、各々が孤立した生活の中で、仕事についても、家についても、見通しの立たない生活が続けば、そのストレスが、家庭内の弱い立場の妻、そして子ども達に及ぶおそれは大きくなる。

 すでに、仮設住宅での家庭内暴力の相談は増加しているとの報道もあり、仮設住宅に住む女性への支援が必要となっている。

 「みやぎジョネット」という被災地の女性支援のNPOに、私も参加させてもらい、8月21日、石巻の避難所に行った。

 「みやぎジョネット」は、避難所の女性と、軍手人形作りなどの手仕事をしたり、ネイルケアやハンドマッサージなどをしながら、女性の話を聞いたり、抹茶を入れて振る舞ったり。仙台の女性弁護士の有志も同行させてもらい、法律相談がある時は、相談にのるという活動をしている。

 法律相談は、ほとんどなかったのだが、避難所に実際に行ってみると、やはり、違う。避難所のおばあさんは、皆、とても上手に、そして楽しそうに軍手人形を作っている。1人のおばあさんが、「ここにいると何もすることがないのよ」と寂しそうに笑っている。私は、避難所に手仕事を持ち込む意味が、ようやくその時分かった。避難所では、女性が自分の裁量でできることがほとんどないのだ。働くことはもちろん、買物に行ったり、掃除をしたり、食事の仕度をしたり。そんな日常生活を奪われ、避難所の中の狭いスペースで押しきせの生活を強いられている。生きる力を奪われているようでさえある。

 しかし、仮設住宅は、市の中心部から離れるので、買物も通院も、あまりに不便で、あるおばあさんは、もし仮設住宅が当たったら、病院に通えなくなると心配していた。

 今は、避難所は、ほとんどなくなっているが、仮設住宅への支援は、まだまだだ。被災者が、生きていて良かったと思えるような支援、女性も男性も、共に手を携えて復旧・復興に進んでいくための支援が求められている。

 被災地への支援が必要なのは、これからなのだ。

 被災地の状況の中で、私個人は、あまりにも無力だが、私なりに可能な支援を、ずっと続けてゆこうと考えている。